贅沢の基準

これは私のiPhoneである。

バージョンはiPhone6、かれこれ3年以上使っているが、何の不自由も無く快適に働いてくれている。一方、新しもの好きな相方は、最新バージョンのiPhoneを使っているのは言うまでもない。

見た目はほとんど変わらないし、機能的にも遜色ないと思うので、相方に、どこが違うのか訊いたところ『カメラの機能がぜんぜん違う~』と、事も無げにおっしゃる。

そもそも、私の中でのiPhoneは【ちょっと便利なことができる携帯電話】なのだが、どうやら、彼女にとっては【電話機能が付いたカメラ】のような位置づけのようである。

型落ちに近いiPhoneで満足している私からすれば、ずいぶん贅沢な考えのように思われるのだが、日ごろから難なく、私の数倍も使いこなしている相方にとっては、至極あたり前のことなのだろう。

私と言えば、機械いじりが好きだった影響もあり、パソコン創世記(メールでもチャットでもない、DOSを使ったパソコン通信の時代)から、すんなり溶け込むことができた。

お陰で、同年代の友人と比べれば、SNSをはじめとした今の世情にも対処できているし、若いご贔屓さんから【ハイテク・爺】の称号もいただいている。それはそれで、何とも贅沢なことだと感謝している。

それでも、贅沢の基準は人それぞれである。

多くの人のように、価値の基準を、金銭的にしか判断できないのであれば、それは、不適切な表現かも知れないが、貧乏人が金持ちに抱く、単なる妬み(ねたみ)や嫉み(そねみ)の範疇でしかなくなってしまう。

ところが、今の自分にとっての贅沢は何かが判りさえすれが、そんなものはたちどころに氷解してしまうに違いないのだが、その境地に至るのは難しいようだ。

自営業者を続けてきた私の宿命であろう、迫りくる支払い決済日への苦悩や、客商売ならではのジレンマに苛(さいな)まれていようとも、酒に煙草と不摂生の極みを尽くしてもなお、元気に動いてくれる身体と、愛慕してやまない人がそばにいてくれることを思えば、これほどの贅沢はないと言い放てるようになりたいものである。